うああ。こわい。3ヶ月前も同じこと(何もしたくない)を書いている。


その間何してたかって、意外なことにレジャーですね。自然を満喫するレジャー。活動的か!


どうしたらいいんだろう。どうしたらいいの?土日の予定を全部決めるべき?止まったら止まっちゃうんだよ。転がったら転がったままでつらいんだよ。むずかしすぎるよ。

明日のやる気

明日のやる気がでない。


今日テレビを見ていたら、山奥の宿を営むおじいちゃんが「仕事をつらいと思ったことはない」って言ってたけど本当だろうか。


私は6割くらいはつらいんだけど。


あと、大学院生だったころめちゃつらいと思ったけどめちゃ楽しいという気持ちも同時に両立しておりその結果鬱になりそうになったんだけどそういう場合はどうなの。(人って相反する気持ちを同居させられるよね。精神やばくなるけど)




ひとつのものを作るのに(そしてまだ終わってないのに)膨大なエネルギーを取られる。そんなに利益は帰ってこないのに。効率よくないのに。

勉強だけしていればよかった中高がなつかしい。あのときは勉強のことだけ考えれば何も考えなくてよかった。よく考えたら私は生まれてからいつも何も考えていなかった。本も勉強も何も考えなくてすむためのものだった。今は仕事以外はそこまですることがないから、空いてしまうと考えないといけない。

椅子に座って、どこかへ行きたいけど行くのもだるくて座ったままだ、Twitterも見終わった、その先何もすることがなくて部屋をうろうろする、大丈夫か?


あと100日休みたいけど、休んだら沈んじゃうだろうな。




キーワード:なにもしたくない、やる気がない

何もしたくないことについての殴り書き

 

●経緯

昔は大学受験もしたし旅行やインターンや留学にも行ったので、自分からいろいろ自発的に行えていたなー

と思ってたんだが、最近はそういう自発的っぽいことをしようと思ってもめんどくさくなってやらないので、はて、昔は単にレールに乗っていた「自発」だったのかと思う

 

●現状と問題

現状:創作物に関わる仕事で、とくにノルマもなく、生活の危機に陥っていない

問題:今の現状では、

①休みの日に本当に何もしたくなくなって困る。何かしようとして迷って時間を無駄にする

②創作系補助の仕事だとインプットが減ると創作に繋がらないので困る(能力低下による食い扶持の問題)

③やりたいことリストはあるがとりかかるのがめんどく、罪悪感にかられる。

 

※じゃあ何をしてるかというと、ツイッターやネットサーフィンをして情報を目の前に流しているだけ。あと昼寝。

 

 

●考察

・虚空を2時間無になって見つめているわけではないし若干何かはしているので、「何もしたくない」とは違う?

 

・ていうか「ツイッターやネットサーフィンをしている」状態=何もしたくない悪の状態みたいに思っちゃっているが、「情報を目の前に流している」という点で「ゲームにはまっている」「ドラマを一気見している」「漫画を読んでいる」と本質的にはまったく変わらないのではないかと思う。

 

・「情報を目の前に流している」をもっと複雑したのが「掃除をする、料理をする」(体を動かす/状況判断をする)、「サッカーをする、会社で働く(体を動かす/状況判断をする/複数人とのコミュニケーションをする)」?

 

・ということは、行動の複雑さ(異なる行為の多重さ?)が無理なだけであって「何もしたくない」とは違う? 

 

・私の本当にやりたいことは「ネットとかの情報を垂れ流しにして眺めていること」で、ここを認めると①と③の問題について「そもそもの欲求を誤魔化すのはやめて楽になろう」、という解決方法になる。

 

・20年くらいは学校教育と家族という環境のなかにいて、主体的に生き方を考えなくても・考えない方が周りの思惑に沿っており生きやすかった。でもその両方が薄まっているのが今の環境で、思考パターンの変更がうまくできなくて苦しいのでは?

うーん。そうか、よく考えると学校教育と家族のセット環境から抜け出してからまだ3〜4年くらいしか経ってないな…

 

●解決方法(暫定)

・思考パターンはすぐ変わらないから今悩んでいる

・思考を変えるんではなくてやっぱ環境とか習慣とか半強制的なものに身を置いて思考を慣れさせるのが吉?

・そもそもやりたいことリストというのはイレギュラーな作業が多くてやりたいけど脳的にはやりたくないのかもしれない。

COSMIC BOX

文章を書いていたのに全部消えた!ひええ。

書いていた内容は、
・この時期(夏ではないけど窓を開けると夜涼しい)はエモい
・合わせてYUKIのCOSMIC BOXを聴くと更にエモい、特に冒頭のピアノのメロディがエモい
・なんでかというと、おそらく大学生のころこの時期に執拗に聴いていたから
・あと大学の近くの田舎の田んぼを自転車で漕いで大型スーパーに行ってたのもいとエモし
・要約すると「都会の満員電車マジ無理働くのも無理、大学生気楽すぎでしょーでもその頃も孤独感とか辛いことはあったよね、結局辛いことだらけじゃねーか」
です

短歌のない生活

「短歌をやめる」、「短歌をやめたい」についてうーんと思う。

こういうのは建設的ではないから書くほどのことでもないと思うが、ブログなので書く。


「短歌をやめる」の主成分は短歌行為(歌を作る、歌会に出る、歌を読む)への拒否で、「短歌をやめたい」の主成分は短歌を発表することや結社・歌会の所属、短歌にまつわる人間関係、つまり短歌関係を断ち切ってしまいたいということなのでは、と思う。


つまり切断したいものが違う。


さらに、「短歌をやめた」というのはまた違っていてやめた(状態)なので、


個人の意思

やめた(状態):(下記2つを切断済み)

やめる(予定):行為(自分の中のもの)

やめたい(願望):関係(自分の外のもの)

外部との関わり


ということかと思う。


例えば過去にサッカーを部活などでしいたら、その後数年サッカーをやっていない状態で「サッカーやめた」とは言わず、「やってた」とか「今はサッカーしてない」と言うだろう。

ここからわかるのは、「短歌をやめた」というのは発表したり人間関係を含む有機的な繋がりを断ちたい願望のことであり、表明であり、主張であり、しかしながら短歌は作る(発表する)/読むだけなら個人でも(理論上)できる行為なので、「やめたい」発言を見るとうーん、そう言われましても…と思ってしまうのだろうということだ。


私は今は短歌をやめたつもりはないけど、作る気が起きないし無理やり作ってもいまいちだと感じてしまうし読みたい!とも思わない。生活にシフトしている。

短歌を通して自分を癒したり社会との関わりを感じる時期が終わった、と感じる。


それにしてもスマホだと打ちづらい。あまりよくない。

エモおしゃれな呟き

エモおしゃれな呟き

エモおしゃれな呟きするとフォロワーが増えることはわかる。

 

たとえばこんなん

 

「小さい頃に行ったとしまえんのメリーゴーランドの照明 安堵と恐れ、懐かしいってふと思うのに距離がどんどん開いていくような 世界の薄い氷の上にいるようなきれいでつめたい時間 あれが本当に求めているものなのかもしれない」

 

「例えばなんの苦労もなく幸福に育ったとしてそれを非難する側の傲慢さをどこまで許容すべきだろうか 個々人の運命はそんな意図から外れているから無機質に魂の重さを測るだけ 見てろよ」

 

 

文章の特徴

・文の区切りは半角か全角空き

・もしくは読点を使わず節ごとに書く

・体言止めの頻度が多い

・ですます調と第三者文(であるでもですますでもない)の両方のパターンがある

・ときどき砕けた語を使う(特に文末)

 

※例です

としまえんに行ったこともない

※これに花や靴や空や風景や君の写真を添えると完璧

 

 

 いやどうだろう

 

終わり

『死にがいを求めて生きているの』感想

『死にがいを求めて生きているの』 朝井リョウ

 

この記事を読んで、私の知りたいことが書いてありそうだなーと思い数年ぶりにお金を出して本(小説)を買って読んでみた。

https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/ryo-asai

 

 

この本の中身を私の都合のいいように解釈し要約をすると、「何にも縛られず好きになれない、興味がない、生きがいがない人間は苦しいし困る、そしていかにして生きていくか」ということだと思う。(対立とか平成とか螺旋プロジェクトとかこの小説の幹はあるらしいが、知らん)

 

生きがいがない人間は苦しい、そしていかにして生きていくか。

 

このテーマは今思うと何度か私の人生で繰り返されてきたように思う。

(はい、以下自分にまつわる話です)

昔、何も好きになれないという人がいた。何も好きになれない。何にも興味を持てない。いや、一見その人はとても活動的なのだ。例えば成績は優秀で、さまざまな人と色々な活動をしたり、本をたくさん読んでいたり。でも、何も好きではない。それを私がどうにかできることはなかった。そのときの私は、自分のやりたいことにあまり疑いを持っていなかったので、好きなことがない人がどうやって生きていくべきかをかんがえてみたりもしたが、本当の意味で思いを馳せることはなかった。

 

 

その少しあと、私は大学院にいた。大学院には、自分の好きなことをしに行ったつもりだった。でも、他の人を見ていると私はそんなにその分野が好きじゃないのかもなぁ、と思うようになった。研究の面白さや楽しさは、自説を解き明かしていくことにあると思う。でも私は、その方法を追うことが苦痛で別に楽しいとは思わなかった。楽しいのはその調査に必要な土地や景色や人との会話であって、研究的な興奮ではなかった。土日は普通に休んで、服を買って、漫画を読みたかった。

 

 

それでも自分の好きな分野であることは変わらないと思い、研究のレベルと自分のレベルが合っていなかったと思うことにし、その分野に関わることで働くことにした。

仕事内容は、その分野に関係する新しいものを作る仕事だ。

最初のうちは変化と安定に安らぎを覚えたけど、毎日に苦しさも覚えるようになった。だって、やっぱり私はその分野に並外れた興味がないことがわかったし、安定しちゃうと新しいものをわざわざ作るモチベーションがない。つまり仕事にならない。これは困る。なので、私はモチベーションを持てない原因を探りたいと思って本やネットの文章をあれこれ読むようになった。

 

 

(自分の好きな分野の枠を外して色々と読んでいるうちに、自分はある分野について好きなのではなくて、理由や仕組みを知ることが好きなのかなぁと思うに至った(←イマココ))

(今のところの結論としては、「人間は社会的な生物だから、社会的規範がなくなると何をしていいかわからなくなるのは当たり前だし、大方の人間は特に何にも好きなことや生きがいをあらかじめ持っていない」というものと、「並外れた興味がないと突出できない、評価されないのも社会的な制約であって、だからこそそれを気にしない精神で居られる者は強い」の二つを考えている)

 

社会的規範というのは、つまりジェンダーやら地縁やら親戚やら今までしがらみと捉えられてきたもので、ある意味それは思考放棄してもよいことになる便利なルールだったわけだが、今の日本、特に若者?はそのルールがない。親戚づきあいも特にしなくていいし、守るべき家もない、トラウマも病気もない、どこにでも引っ越せるので地域のネットワークもない、お金もとりあえず困らない。だから、自分を規定するものがない。

 

じゃあ趣味とか作ればいいじゃん、ってなるけど、何にも、はまれない。だから自分でも苦しい。何にもはまれないと、「仕事」になんないから、困る。

 

…ということをドラマチックにダイナミックに急進的に先鋭的に書いたのが先の小説『死にがいを求めて生きているの』だと思うの。

 

これを解決するアイディアが小説のなかほどで紹介されるのだが、「高尚な生きがいを無理に求めなくてもささやかな好きな人の幸せを守る、じゃだめ?」というものだ。これには発動条件があって、①まず人を好きになる ②両思いでないと、短期間のうちに終了する というものだ。なかなか難しい。

 

 

しかし、解決策を開発できないでもこの小説によって「何にも縛られず好きになれない、興味がない、生きがいがない人間は苦しいし困る、そしていかにして生きていくか」という問題は非常にわかりやすく提示された。そのことにちょっとほっとする。

 

(あと、この小説の問題提起は例えばAIと科学が発達してやることなくなった人間の問題にまで発展するんじゃないかなーという気もするけど、それは小説の読みすぎかもしれない。)