『死にがいを求めて生きているの』感想

『死にがいを求めて生きているの』 朝井リョウ

 

この記事を読んで、私の知りたいことが書いてありそうだなーと思い数年ぶりにお金を出して本(小説)を買って読んでみた。

https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/ryo-asai

 

 

この本の中身を私の都合のいいように解釈し要約をすると、「何にも縛られず好きになれない、興味がない、生きがいがない人間は苦しいし困る、そしていかにして生きていくか」ということだと思う。(対立とか平成とか螺旋プロジェクトとかこの小説の幹はあるらしいが、知らん)

 

生きがいがない人間は苦しい、そしていかにして生きていくか。

 

このテーマは今思うと何度か私の人生で繰り返されてきたように思う。

(はい、以下自分にまつわる話です)

昔、何も好きになれないという人がいた。何も好きになれない。何にも興味を持てない。いや、一見その人はとても活動的なのだ。例えば成績は優秀で、さまざまな人と色々な活動をしたり、本をたくさん読んでいたり。でも、何も好きではない。それを私がどうにかできることはなかった。そのときの私は、自分のやりたいことにあまり疑いを持っていなかったので、好きなことがない人がどうやって生きていくべきかをかんがえてみたりもしたが、本当の意味で思いを馳せることはなかった。

 

 

その少しあと、私は大学院にいた。大学院には、自分の好きなことをしに行ったつもりだった。でも、他の人を見ていると私はそんなにその分野が好きじゃないのかもなぁ、と思うようになった。研究の面白さや楽しさは、自説を解き明かしていくことにあると思う。でも私は、その方法を追うことが苦痛で別に楽しいとは思わなかった。楽しいのはその調査に必要な土地や景色や人との会話であって、研究的な興奮ではなかった。土日は普通に休んで、服を買って、漫画を読みたかった。

 

 

それでも自分の好きな分野であることは変わらないと思い、研究のレベルと自分のレベルが合っていなかったと思うことにし、その分野に関わることで働くことにした。

仕事内容は、その分野に関係する新しいものを作る仕事だ。

最初のうちは変化と安定に安らぎを覚えたけど、毎日に苦しさも覚えるようになった。だって、やっぱり私はその分野に並外れた興味がないことがわかったし、安定しちゃうと新しいものをわざわざ作るモチベーションがない。つまり仕事にならない。これは困る。なので、私はモチベーションを持てない原因を探りたいと思って本やネットの文章をあれこれ読むようになった。

 

 

(自分の好きな分野の枠を外して色々と読んでいるうちに、自分はある分野について好きなのではなくて、理由や仕組みを知ることが好きなのかなぁと思うに至った(←イマココ))

(今のところの結論としては、「人間は社会的な生物だから、社会的規範がなくなると何をしていいかわからなくなるのは当たり前だし、大方の人間は特に何にも好きなことや生きがいをあらかじめ持っていない」というものと、「並外れた興味がないと突出できない、評価されないのも社会的な制約であって、だからこそそれを気にしない精神で居られる者は強い」の二つを考えている)

 

社会的規範というのは、つまりジェンダーやら地縁やら親戚やら今までしがらみと捉えられてきたもので、ある意味それは思考放棄してもよいことになる便利なルールだったわけだが、今の日本、特に若者?はそのルールがない。親戚づきあいも特にしなくていいし、守るべき家もない、トラウマも病気もない、どこにでも引っ越せるので地域のネットワークもない、お金もとりあえず困らない。だから、自分を規定するものがない。

 

じゃあ趣味とか作ればいいじゃん、ってなるけど、何にも、はまれない。だから自分でも苦しい。何にもはまれないと、「仕事」になんないから、困る。

 

…ということをドラマチックにダイナミックに急進的に先鋭的に書いたのが先の小説『死にがいを求めて生きているの』だと思うの。

 

これを解決するアイディアが小説のなかほどで紹介されるのだが、「高尚な生きがいを無理に求めなくてもささやかな好きな人の幸せを守る、じゃだめ?」というものだ。これには発動条件があって、①まず人を好きになる ②両思いでないと、短期間のうちに終了する というものだ。なかなか難しい。

 

 

しかし、解決策を開発できないでもこの小説によって「何にも縛られず好きになれない、興味がない、生きがいがない人間は苦しいし困る、そしていかにして生きていくか」という問題は非常にわかりやすく提示された。そのことにちょっとほっとする。

 

(あと、この小説の問題提起は例えばAIと科学が発達してやることなくなった人間の問題にまで発展するんじゃないかなーという気もするけど、それは小説の読みすぎかもしれない。)

獣ゆく細道

追記

サラリーマンの行進なんて何年も何十年も前からあったものだし、この「働き方に疑問を持っていて、そこでこの歌が響いてきた!」と言うこと自体は東京の8割くらい(推定)の人たちが繰り返し抱いてきたなんのおもしろみもなく陳腐な感想なんだけど、でもよく考えたらおかしくない?何十年も経ってるのにまだ行進してるのおかしくない?あとこういうことを言葉が被らないように詰め込みまくった歌詞もなかなかレアくない?というまとめだと思う。

 

 

椎名林檎宮本浩次の「獣ゆく細道」。

この曲、もう1行ずつ半紙に筆で書いて寺の掲示板みたいなやつに毎日貼れるんではないか?と思うほど頷ける言葉の組み合わせばっかりなので、私的頷きポイントについてコメント(メモ)していきたいと思う。

なんでかというと、やっぱ私が今の働き方に無理みを持っていて、「自分が思っているよりももっと深く、思考方法さえこの社会に規定されすぎていないか?」と恐ろしく思っているから、この歌が響いてくるのだと思う。

 

 曲の中に徹底しているのは「生は一度きり、生と死を逆転させたままではいけないと気づけ」というメッセージ。

 

 

(以下、歌詞は旧かな文語だけど文字にすると理解が遅くなるので聞いたままに書きます)

 

1番

いつも通り お決まりの道に潜んでる秋の夜

着膨れして 生きながら死んじゃいめぇかとふと訝る

 

 →

お決まりの道、というのは単にいつも通行している道の意味ではなくサラリーマンの通勤行進のようなもの、ひいては人生そのもの(決められたルート)という意味にとらえた。そしてその行進に潜んでいるのは、着膨れして寒さからではなく社会の鬱屈から身を守る自分。 そんな自分は生きていながら死んでいるのと同じではないか? 生命としては生きているが、個としては死んでいるのではないか、という疑問を持つ。

…まずこのフレーズ、これは私のことだよ〜!と思う。毎日東京の見るだけでうんざりするような会社への行進にせっせと参加しているし、3月なのに真冬と同じ格好してるいてまさに着膨れしている…。と、そのまますぎだなぁと思いつつ思う。

 

 

飼い慣らしてるようで飼い殺してんじゃねぇか自分自身の才能を

頭と体 まるで食い違う

 

 →

ここでも生と死についての疑問。「飼い慣らしている」と「飼い殺している」、「頭と体」は生と死の比喩。 

 →

頭と体:考えと行動がまるで食い違うということだが、それは真と嘘、本来の生と偽物の生(=死)が発生してしまっているということ。それを聴者に執拗に呼びかける。私はただそうですね、と心の中で同意する。

 

 

 

2番

気遣ってるようで気遣わせてんじゃ嫌だ自己犠牲のふりして

お為ごかし(おためごかし)か とんだカマトト

謙遜する前の単に率直な態度を誇ってたいと思う そう正体は獣

 

こっから先の歌詞は私的に全部わかりみのオンパレードなんだけど、ここでも生と死(真と嘘)がひっくり返ってしまっていることに疑問を持ち、聴者をぐりぐりとえぐってくる。すごいですね、そんなことないです、尊敬します、とか、なんかそういう美徳的なものっていつのまにかバレてるでしょ?捻れてるっしょ?と。

「気遣い(心からの思い)だったはずが本当は自分のためだとバレて逆に気を遣われるなんて嫌だ!」と今まで誰がこんなにストレートに言いあらわしてくれただろうか。しかも「お為ごかし」とか「かまとと」とか日常生活で使わないのによくこんな言葉引っ張ってきて組み合わせて使ってくるなー、すげえーと思う。

謙遜する前の単に率直な態度を誇ってたいと思う、なんてもう、これを1年くらいは毎日暗唱して拠り所としたいくらいだよ。

 

 

 

かじかんだ命でこそ成し遂げた結果がすべて

孤独とは言い換えりゃ自由 黙って遠くへゆこう

 

個人的思い入れ(仕事場が地下で寒くてマジで指がかじかむこと、完成のまだ見えない仕事をずっとやっていること)からもうほんとそれですよね…という感想。

結局、誰かに悩みを相談して何らかのヒントや転機になることもあるけど、毎回毎回グチるわけにもいかない。それに、なんやかんやうるさいことを言ってくる人のことなんか気にしないで誰も知らない景色を踏みしめる方が楽しい。

 

 

幸か不幸かさえも勝敗さえも当人だけに意味がある

 

→いやほんとそれ。

 

 

書くのが面倒になってきた。つづく(かもしれない)

 

友達について

新しく友達(または恋人でもいいんだけど)になるというのは、何か共通項がないとなれない・作れないことなのではないか、と思って少し悲しくなる。

 

学校や地域においては、強制的にそこにいることによって場所・時間・起こるできごとを共有していたら大体友達になれたと思う。もちろん部活や趣味で気があって友達になるというのもあるけど、ある種の強制力というかなし崩し的な友達が発生する余地があったわけで、趣味合わないけど友達だな〜みたいな人もいるわけで。

 

でも地域を転々として特に人数の多くない会社で生活してたら、趣味とか好きなことくらいしか共通項を以ってして関われる人物がいない、ということになる。だって生活と労働で1週間の7割くらい占めてたら十分にコミュニケーションをとってる時間ないし、そのなかでやる気になるもんといえば趣味くらいしかないわけで。

 

だから何が悲しいかって言うと、趣味や好きなことがない人間は友達ができないのか?って思いまして。あれ、でも友達がいないと悲しいんだったっけな。

 

 

システムについて

何回も「システム」について考えているし書くことになると思う。

 

最近流行っている退職エントリ。あれって別にIT業界だけではないけど、IT業界的な思考がベースにあるのではと思っている。

 

つまり、「今いる会社のシステムがわかりきってしまってつまらない/不満ややりたいことがあるけどそれは会社のシステムを壊さないと改善しないとわかってしまったから、退職するほうが早い」と思っての退職なのではないか?

 

んで、IT業界って他のどの業界よりも新しいことを個人が作れる(という思想がある)業界だと思う(知らんけど)。だから、他の人や会社のシステムの方が遅れて見劣りして見えてしまう。一方、既存の会社は十数年〜単位でそのシステムでやってきたわけだから、これからブラッシュアップしようと思ってもぬくぬくふとんのように抜け出せなくなっている。おまけにそれでまぁある程度稼げる。だからシステムを変えることはできず、退職を止められない。

 

「システム」って生態系とか機構とか仕組み言うのかもしれないけど、みんなシステムについてどのくらい興味があったり考えてるのかなぁ。

今知りたいシステムは、携帯とかインターネットの電波のこと。なんで無線でデータ送れるるんだろう!ふしぎ!

切り花の桜

ブログを書くのは楽しいけど忘れそうだなと思う。

 

帰路に切り花の桜を買った。前にも桜を買ったことがあるが、こいつは草ではなくて木なので水につけておくと葉っぱや根が出てくる。

そうしてしばらく桜は生きるのだが、8月ごろの猛暑に伴って枯れてしまった。根はわんさか出ていたし水にも浸かっていたから、根腐れか締め切った部屋の中が暑すぎたせいだろう。

 

草の花は枯れるから忘れてもいいけど、木の花は生き続けるから、忘れられない。毎日ちらっと水が切れていないか見て、いつか土に植えてやらないとなあ、思い続けるはめになる。妙に罪悪感が生まれてしまう。だからあまり桜は買いたくなかったんだけど、でも買っちゃった。すごくカワイイ。

 

ブログも途中まではいいけどそのうち飽きて/忘れて/忙しくなって放置し、ネットの海の彼方に消えたアカウントが何個もある。そういう細やかな持続が苦手なのかもしれない。

 

こういう文章をポエムと言うのかなあと恐れる。

雨とApple music

今日は早くかーえろと思って出たのに傘を忘れ、会社に取りに戻った。駅についてスマホがないことに気づき、また会社に取りに戻った。何回会社行くねん。

靴に雨が染み込み、暑くなってきてマフラーを手に持っているとマフラーがびしょ濡れになる。狭い道で傘をさしていると相手に道を譲るかこちらが通るか考えなくてはいけない。こんなに多くの事象が起こるなんてもういやだ。もう悲しい。さらには、今日替えたばっかりのイヤホンのキャップみたいなやつもどっかにいってる(なかなか売ってないのに!)。むり。


電車で音楽を聴く。乗客の出す音にも苛立ってしまうから。自分を励ましたいから。

Apple musicは便利だ。何回もTSUTAYAに往復しなくてすむし、大体置いてないシングルCDの中の曲を必死に探さなくてすむ。

流行りの歌を1曲だけ聴きたい時にも便利だ。無ければ250円くらいだし買えばいい(TSUTAYAに行くまでの交通費くらいの値段だ)。


スマホをなくさないほうがいいですね。



Applemusicで入手した曲


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忙しくなってわかったこと2

明日も早く出ないといけないのに私は何を書いているのか。

 

忙しいけれど自分のパフォーマンスを最大化しようとすると、規則正しい生活を送るハメになる。1週間なら徹夜でもいいけど3ヶ月くらい最適な状況で存在しつづけるためには睡眠と食事とストレスのない状況を自分に課すしかない。逆に健康だ!

 

そうなるとわかるのだが、毎日同じような感じにしていても気分の波がある。気分の波がひどくなるともはやそれは体調の波になる。女性で言うと生理前に不調が来るみたいなやつ。あれ絶対ある。だから、今日仕事はかどらないな〜って日とかイライラしてしょうがない日はもう諦めるしかない。1ヶ月の中でノッてる日にがんばってプラマイゼロくらいにしかならんと思う。

 

修論のデータをとっていたときに、1週間くらいだけど最強に自分を肉でできた機械にしたことがある。分刻みのスケジュールであるモノを実験器具で燃やして、計量して、燃やして、計量して、という作業だった。実験器具は使う時間がだいたい決まっている(というか人がいる時間に使わないと危ないやつだった)ので、それはもうまじで分刻みに己を酷使する。3日めくらいには手は動いているけど自分が自分の外にいる感じだった。ツ◯ヤのバイトも慣れたらそんな感じだったな。

あれとまでいかないけど、今もそんな感じに近い。これはいけない。こうなるとただの肉でできた機械だ。作業する肉だ。機械は鉱物でできているけど、鉱物が肉にかわっただけだ。肉でできている鉱物の如しだ。

 

だから動物にも機械にもなってはいけない。人間を取り戻そう。ねる。