短歌のない生活

「短歌をやめる」、「短歌をやめたい」についてうーんと思う。

こういうのは建設的ではないから書くほどのことでもないと思うが、ブログなので書く。


「短歌をやめる」の主成分は短歌行為(歌を作る、歌会に出る、歌を読む)への拒否で、「短歌をやめたい」の主成分は短歌を発表することや結社・歌会の所属、短歌にまつわる人間関係、つまり短歌関係を断ち切ってしまいたいということなのでは、と思う。


つまり切断したいものが違う。


さらに、「短歌をやめた」というのはまた違っていてやめた(状態)なので、


個人の意思

やめた(状態):(下記2つを切断済み)

やめる(予定):行為(自分の中のもの)

やめたい(願望):関係(自分の外のもの)

外部との関わり


ということかと思う。


例えば過去にサッカーを部活などでしいたら、その後数年サッカーをやっていない状態で「サッカーやめた」とは言わず、「やってた」とか「今はサッカーしてない」と言うだろう。

ここからわかるのは、「短歌をやめた」というのは発表したり人間関係を含む有機的な繋がりを断ちたい願望のことであり、表明であり、主張であり、しかしながら短歌は作る(発表する)/読むだけなら個人でも(理論上)できる行為なので、「やめたい」発言を見るとうーん、そう言われましても…と思ってしまうのだろうということだ。


私は今は短歌をやめたつもりはないけど、作る気が起きないし無理やり作ってもいまいちだと感じてしまうし読みたい!とも思わない。生活にシフトしている。

短歌を通して自分を癒したり社会との関わりを感じる時期が終わった、と感じる。


それにしてもスマホだと打ちづらい。あまりよくない。