最近(半年くらい)短歌が読めない。作るほうも半年以上は作っていない。歌会も行っていない。私は自分のことばかりに興味がある、なんでこうなったのかが知りたい。


手始めにネットに落ちてる穂村弘のインタビューや対談をいくつか読み直した。

穂村弘が言うには短歌の存在価値は「(人間)社会」ではなく「世界」の枠で起こっていることを扱うこと、世界で起こったことへの感覚を扱うこと、なのだそうだ(意訳)。

短歌は「生きる」を扱っており、社会は「生きのびる」ことを扱っている。

世界とは、生きるとは、たとえば、ばななのひも状のもの。カルピスを飲むとできるおろろろ状のなにか。それについてんっ?と思うこと。


そして、そういうものを高度にギリギリのバランスでやっているジャンルとしてお笑いを穂村弘は挙げている。


(上記のこと、昔頭に入れた考えなのに忘れてた。こわい)


では、私が短歌を受け付けなくなっているというのは「世界」で起こったことと感覚についておもしろいと思うことが無くなっているからなのか。


それは逆に言えば社会に注力しているということで、確かに私は仕事に行って身を立てて生活することに頭を250%くらい使っていて、生きのびることにせいいっぱいで、もう世界について考える余裕がどこにもないのかもしれない。


短歌を1番作っていたのは学生の頃だ。学生なんて社会から守られて何も考えなくてサバイバルしなくてよかった頃だ。

私は社会に適応してしまったのか、そうか。穂村弘は社会に適応できなかったことを延々とエッセイに(それが作品として脚色されていたとしても)書いている。それが弱みでもあったが今ではエッセイストとして、また歌人としてのかなりの強みであるんだろう。


私の学生時代、田舎だった。それに生きのびることに困ってなかった。短歌は元手のいらない表現ツールであり自己承認欲求を満たすものであり歌会はコミュニケーションであり他人の歌はそこまで読まなかった、つまり短歌はとても都合がよかったのだ。私は非常に不誠実に(?)短歌を利用していただけであり歌人ではなかった。そういう意味では短歌を利用しない誠実な人間(?)に戻っただけなのか。短歌よ、今まですまんかった。


いやでも、それは、短歌から得た生きる/生き延びる、社会/世界という考え方を忘れてやめて生きるのは何か怖い。社会で楽しいということ、例えばニンテンドースイッチをやったり何か作ったりスポーツしたりってまるで普通ではないか。世界について意識することをまるで忘れてるではないか。それって人間っぽいのかな?まともなのかな?こわくない?