あんまり検索とかしてここにたどり着かないでほしいんだけど、短歌作れない読めない問題と付随して最果タヒが読めない問題が私のなかにある。


短歌が社会ではなく世界を扱うジャンルなのだとしたら、最果タヒつまり詩のジャンルは異世界を顕現、幻視するものなのだろう(か?)


いや、それもよくわからない。なぜなら最果タヒの詩を読もうとしたところ目が滑って文の意味を理解することを頭が拒否した。


でもいろんな人が素晴らしいものとしていてこれは私に欠陥があると思わざるを得ない。

※実際去年あたりはそもそも本自体が読めない、文章を読みたくないという若干鬱前の症状があったからその余韻なのかもしれない。


短詩は普段の言葉の使い方(たとえば社会的に通じる文章)と違う読み方を読者に求める、つまり言葉の捉え方のフィルターをずらすよう読者に要求するので、そのフィルターと同じものを持っている人はいいけれど持っていないひとはわざわざなにかしらの苦労をしてわかろうとしなければならない。

もし前段で言った「詩は異世界を顕現するもの」なのであれば、社会で生き延びるのにあっぷあっぷな人には到底コストがかかりすぎて到達出来ないということになる。


しかし多くの人に支持されるということはみんなにとってはわかりみがあるということで…


うーん…