日記 やりたいこと

やりたいことが多いのに手をつけられない。

まずスマホをやめたい。Xとスレッズを見るのをやめたい。時間を算出するためにはそこからだ。

Xを見ていると、おすすめ欄(のアルゴリズム?って言うんですか?)が投資の話ばかりで、投資をしたほうがいいのではないか、という焦りの気持ちになってくる。

東京と地方のどちらに住んだ方が幸福度が高いかとか、資産を増やすにはとか、何が年収が高い職業か、起業は副業は……みたいな、「選べなかった者が負ける」という価値観が立ち込めているように感じる。

 

 

歌集を読んで、作品も作って、音声も編集して公開もしたい。

不思議と前ほど歌会をしたいという気持ちは湧かない。歌会というかzoom歌会かな。zoom歌会よりも(いや、zoom歌会が悪いわけでは決してないんだけど、今の私は)、できれば対面での歌会や、ただご飯を食べて楽しく喋るということをしたい。

生身で人に会って起こるいろいろなことが、死ぬ時に、自分が自分に持っていけるものなんじゃないかと思う。

 

 

やりたいことがたくさんあって、でも毎日寝てしまったりして、な日々ではあるけど精神的にいい事な気もする。

ちょうど1年前くらいは絶え間なく仕事のことが気になっていて、土日も仕事のことを考えたり罪悪感に駆られたりして、でもどこにも行けなくて、というゆっくり弱っていく生活だった。

 

 

谷川由里子さんにお願いして、「歌集を読んだらおしゃべりしよう」という活動を始めてみた。

この前、それぞれの自己紹介の回を録音したのだが、ひとつそこで言い忘れた。Q短歌会の第5号が谷川さん×山崎聡子さんのダブルインタビュー特集でとても良いのでぜひみなさんお読みください。

谷川さんがいかに多くの人を短歌に結びつけているかが、よりわかると思う。私は(具体的な箇所は忘れたけど)谷川さんが山崎さんの短歌を読みたいと思って行動した、的なくだりを読んで泣きました。

私も谷川さんによって短歌に接続させ続けてもらっている身なので、最近いろんな批評会や特集で谷川さんが引っ張りだこなのもわかるなーと思う。

 

おわり

日記 トレモロ

虚弱体質エッセイ『虚弱に生きる』を読んだ。

ここ数年、自分自身が頭痛や倦怠感や〇〇炎に悩まされることが多く、同じような人のお困り談を読みて~と思って、タイトルを見た瞬間予約した。

読んでみると、著者は私より数段体力がないようで、長時間座っているだけで体調を崩したり痔になったりと私なんて虚弱に入らないかなと思わされるレベルの「虚弱」だった。

ただ、読んでみて自分で意外だったが、そういった虚弱エピソードよりも、著者が「部屋の窓から差し込んだ朝日が畳に当たり、白い壁に小さな虹ができている時」のようなふとした瞬間に幸せを感じるようになった、という記述に一番感動した。

 

 

「にじ」という童謡がある。

「にわのシャベルが 一日ぬれて

雨があがって くしゃみをひとつ

くもがながれて 光がさして

見上げてみれば ラララ…」

というような歌詞がスローテンポで抑え目なメロディに乗っている歌なのだが、なぜだかすごく感動する。

特に「雨があがって くしゃみをひとつ」「くもがながれて 光がさして」の部分の、場面と場面の間の置き方が、まるで自分がその場に居るような懐かしさと寂しさと嬉しさを感じさせる。

くしゃみをひとつ。くしゃみをひとつ…。

世界の時の流れをただじっと眺めていた瞬間に戻れたような気がする。

歌のゆっくりさ(BPM80)が、それを作り出しているのかもしれない。

 

最近、こんなふうに時間を感じているかなー?

朝起きて、急いで支度してとにかく仕事をしてご飯を作って食べ風呂に入り寝る、土日は何か刺激を求めて外出する、の繰り返しで、空いている時間にはスマホ(Xかスレッズかインスタ)ばかり無駄に見てしまう。

本を読むこともだいぶ久しぶりにがんばって行った、という感じで、インフルエンザになって時間がなかったら読み通せていなかったかもしれない。

楽しみにしていたRADWIMPSのトリビュートアルバムも、スマホでこの日記を書きながら聴いてしまう。本当は音楽だけ聴きたいのに。

本当は家のインテリアについて考えたり、物が多すぎる箇所を整理したり、美味しい料理を作ったり、歌集や本を眺めたりしたい。でも、すれらはすべてスマホの快楽に負けてしまっている。

深刻にスマホ断ちをするべきではないかと思うが、それ以上に脳がお手軽な心地よい刺激を求めてもいる。

 

 

 

日記 女児向けクッキー柄刺繍リボン

タイムラインに出てくる歌集の批評会やイベントを見ていると、友がみなわれよりえらく見ゆる日よ~となってしまい、「いやでも、まぁ私もちょっとはやってるし…」「でもこのまま30代が終わるのか」「リソース割けねぇ」みたいな、あたまがいそがしい気持ちになり、その連続でさすがに疲れてきた。

 

 

『了解』のアーカイブ配信を(いまさらだが)見ており、見るのだが、3時間超か…とはなる。

やっぱテキストで読む方が頭に入りやすい。

 

 

自分の癒しのためにNetflixのウェンズデーを観ているが、それすらもしんどくなったりして、ラスト2話を見ていない。

 

『了解』の批評会を聴きながら思ったことメモ

・書くことで、テキストにすることで「心が宿り戻る」。(谷川さん発言)

・死にたい理由が書いていない(江戸さん発言)

・人間関係の歌集である(仲居さん発言)

私小説に近い構造。社会的な私と仮想的私が干渉したり衝突したりすることが多くなってきた現代、だがそれで「平出奔」を生きることができるようになったのでは(←ちょっと怪しい覚書、鈴木さん発言)

 

私がこの歌集にフィットする理由は、

私小説や日記が大好き

なのもあるけど、

・ほっとくと無になる(死にたいとは違う、何もかも最終的に面倒になり、興味が続かない)

・自分には興味がある

・他人は自分の輪郭や形を明確にさせる。だから人間関係は必要だし、欲しい

・テキストや視覚で物事を把握するほうが頭に入る

みたいなところなのかなーと思った。

私も歌集を作って自分に心を宿り戻したい。私を俯瞰したい。谷川さん言い得て妙だなー

 

女児を養育してはいないが女児向けの髪飾り:木綿のリボンにクッキーの柄が刺繍されており、髪ゴムがついてるやつ  を、「確保しておかなくては」という気持ちで買った。家にあるマイメロディのぬいぐるみにつけるからいいのだ、と思うことにしている。

 

おわり

 

日記 疲れが出る頃

・脳が短歌のモードにならない:短歌できない

・風邪ひいたりそのまま副鼻腔炎になって鼻水が止まらなかったり貧血で体が重く眠かったりする

・たぶん4,5月の疲れが出てきている。毎年そうだ(特にここ数年は春先に仕事量が多かったから)

 

しかし、職を変えて労働時間が減った上に家で仕事をしなくてよくなったので、だいぶ気持ちが楽になった。仕事で人とも話せるし、精神的に健康になっている気はする。

笹井短歌賞に出したいけどこんなだから間に合うかわからない。あと2週間…。

本当はもっと歌をばんばん作れるようになりたいけどそのモードに脳を切り替えづらくなっている。のへーとして毎日を終えている。

 

 

日記 カレーうどん

『テリーヌの夢』感想続き。

 

・頻出単語:薔薇

・洋風な食べ物の単語:ミルフィーユ、エスカルゴ、グリエ、ショートケーキ、シャーベット、ポワレ、テリーヌ、アボガドのポタージュ、クグロフ…

 

・連作によってかなりモチーフが違う(のはいいのか?)

『テリーヌの夢』の歌…は、全体的には、さまざまな植物や、具体に想起できる食べ物・温度や色を持った語+はっとするようなシーンや口語の発話が合わさっていて、それが現実の景や 鋭い内情、夢(心地良さ)をひとつの歌で質感豊かに表現している…と思う。

ただ、連作ごとにモチーフが微妙に違っており、「天窓」では銀紙のゴミやもやしのひげ根といったワードが出てくるが、直後の「銀泥のフリル」ではテリーヌや薔薇や葡萄やすみれや無花果…という単語の塩梅で、(ちゃんと読み返して検証しなきゃなんだけど)「銀泥のフリル」かなり睦月都を想起した。

それと、逆に巻頭の連作「月光が鳴る」ではそういったいい感じの単語は抑えめで、そのぶん描写・口語の良さや主体の独特な「鋭さ」のほうが出ている気がする(例:死んだ目で花束もらう仕方なく笑う文脈ばかり  やばいね)…が、逆に普通の短歌になっている歌もある気はする(例:固まった絵の具のような初恋の記憶ほんとうに好きだった)

 

 

短歌で見せる景とはなんだろうか?

現実をそのまま描写していくのがつまらなくて時には汚くて想像しても楽しくないものとすると、やはり読む側(この場合、著者本人でさえも)の気分が良くなるものがいい。

そうなると、(私は)気持ちいいワードから使っていくところがあるのでは?…という危惧…はある。いや、なんか語弊があるかもなんだけど…

でも、独りよがりな描写や単語や訴えを主張し続けても読まれなくなる。作り手と受け手の双方が納得し、良いとするそのバランスが難しくておもしろいのではあるけど…

 

 

私は歌集を読む時にわりと単語が気になってしまうが、そこじゃなくてもっと何を詠んでいるのか…得体は何か ということを2回目に読んで書いておきたい

 

 

枡野浩一がXでカフェで撮った写真を上げていて、「おしゃれにならないようにレシートを入れて撮った」的なことをコメントしていたことがあって(いつのか辿れません)、日記タイトルのカレーうどんもそれに相当するかもしれない、と思っている。

 

日記 向上心

田舎だからなのか、転職先の会社の昼休みはみんな家に帰って昼食を食べており、私もそうしている。

ご飯を食べたり皿を洗いながら起業家へのインタビュー動画を見ていることが多いのだが、起業家の話を聞いていると、向上心がある/なしというのは生まれつき髪が黒め/茶色め  みたいな感じで、先天的に備わっているものな気がしてくる。つまり、私には向上心があまりない。お金は欲しいけど、「デッケーことやりたい!」より「ダラダラしたい!」が勝つ。それは、どちらが偉いとかじゃなくて、黒めか茶色めかということなのではないか(と思いたい)。

 

 

『テリーヌの夢』続き。Ⅰ章まで読んだ感想。

「ガールフレンド」は満遍なく好きな歌が多い。

 

道端のコンドームから道端のラブレターまで走れなくない。

 

「走れなくない。」の結句がかっこいい!  こういう口語言い回しの決まりが好き。内容としても、意外な所作の示唆が入ってきてカッコイイ。

 

歌集全体の雰囲気としては女子学生、水、青春、恋、的な語句が多いが、歌会の藤本さんの印象も作用してか、どこかしらかっこいい感じ。逆に言えばご本人がかっこいいイメージだったので歌集の中の語句がわりと可愛…青春感があって意外。今のところ。

 

1日の終わりに読んでいて、一読して頭に入ってくる歌と入ってこない歌がある。

 

 

いろいろ歌集を読んでいても『了解』がちらつくので、それについては文章を書きたいのだが…ていうか批評会の動画まだ見てないことを思い出した。

 

 

日記 たまごっち 『テリーヌの夢』

毎日夜、ガチャガチャやたまごっちの画像を見漁っている。平成リバイバルブームというのか、90年代に流行った玩具やアニメやサンリオのトーンの商品が復刻されてたくさん出ている。

それらを見ていると脳が喜んでいるが、それって単純にいいことなのだろうか。子どもの頃買えなかったからこそ脳に焼き付いているデザインの数々を買って、満足して、という流れが、今を見るよりも楽しいことだとすると、なにか…むなしいような、まずいような、。

※追記  完全に忘れてたけど前回の日記も同じようなことを書いていて、どんだけ見てるんだよと自分に思いました  気になると限界までネット上で調べ尽くす僻(へき)がある

 

 

『テリーヌの夢』を読んでいる。最初の方をちょろっと読んで、あとがきに行くと、「パテ屋」「ガレットブルトンヌ」という単語はあるが、歌集タイトルのテリーヌという単語はない。パテってテリーヌとなんか似てるやつだっけ?

どっちにしろ、都会なのだなということがわかる。私や私の今住んでいる所からは、遠い所だ。「パテ屋」も「ガレットブルトンヌ」も、初めて聞いた。