悲しいニュースを摂取しすぎないことと手の屋根の歌について
手で屋根をつくって歩くお前たち昼間の雨にひるまないでね
(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)
悲しいニュースが多い。書くとその語彙だけで悲しくなるので何が悲しいニュースなのかは書かない。
悲しいニュースを摂取しすぎないほうがいいと思う。この世の現状を把握することは大切だが、だからといってたとえば過去まで遡って凄惨な出来事を全部知るべきかというとそうではない。ように、現代の今まさに起きている悲劇的なことすべてについて把握している必要はまったくない。
私は家にいることが多いので、テレビをつけていると1日2〜3個は悲しいニュースが流れる。Twitterはもっと詳細に悲しいニュースを表示する。
むかし、大学で中国語の先生が「悲しいニュースを見るとつらいので、テレビを見ないようにしています」と言っていた。おおげさな、と思ったけど今ならその気持ちがわかる。
手で屋根をつくって歩くお前たち昼間の雨にひるまないでね
谷川さんの歌は人を恨むとか悲しい気持ちを延々と繰り返すとかそういう匂いがしないのですごいと思う。それに、他人の影響を受けずに立っている。ただ、すごいというのはそっちが良いということではなくて、私と違ってすごいと思うというだけである。
ぷろぐらみんぐを勉強するとは、と、コーヒーカップの歌について
珈琲をそそがれるとき丸ごとのコーヒーカップにわたしはなれる
(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)
昨日はオンライン短歌市という仮想空間での同人誌販売会?に参加したのでブログを更新するのを忘れた。正直言ってやっぱりブログを毎日更新するのはめんどくさいの気持ちが勝ってしまい、自分との戦いだなと思っていますね。
毎日をがんばってやりすごしているのに、夜になるとツイッターやネットサーフィンをして後には何も残らないので、ちょっとずつ本を読んでノートに書いて勉強したりしてみている。プログラミングとかウェブサイト作りとかのことを知りたくて、あわよくば仕事に繋がんないかなあなんて思っている。
たぶん、コードを書いて何かを作るのと、ウェブのなんらかのなにかを使って金儲けやPRをするというのは全然違うことなのだが、小中高大でそんなことを習う授業はなく、最初はそこを混同して考えていた。
プログラミングに詳しい人に「ぷろぐらみんぐをべんきょうしてみたいんです」と言ったら、「最初に何がしたいかの目的がないと何の言語をやってもあんまり意味がない」と言われて、それはそうです…よね…人生のこと…かな?…と思ってたぶん3年くらいは経った。
珈琲をそそがれるとき丸ごとのコーヒーカップにわたしはなれる
谷川さんの短歌は優しいなあ、というか、希望がラメのように散りばめられていて基本的には明るい色調のように思う。この歌も、「なれる」がやっぱり「できる」という明るい意味を放っている。
わたしは珈琲も飲まないし丸ごとのコーヒーカップになる感覚を覚えなさそうなので、いいなあ、と思うだけである。
笑いをとることとカラオケのハンガーの歌について
カラオケのハンガー壊れるハンガーはドラムにもギターにもなるから
(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)
笑いのエッセンスのある文章(ブログ)に憧れている。
具体的にいうとアルテイシアさんとかズイショさんとか……。
しかし、すでに小学4年生のときにはバスケットボール愛好会の休み時間に盛り上がっている他の女の子たちを見て「私は人を笑わせられないな(暗)」と笑いのスキルについて比べて悩んでいたので、昔から向いてないことは無理にしなくていいかーと思う。
カラオケのハンガー壊れるハンガーはドラムにもギターにもなるから
カラオケのハンガーはいかにも壊れそうだ。ハンガーには悪いけど、楽しいカラオケ場合、盛り上がってドラムにもギターにもなっちゃうだろうなと思う。
大学生のとき、一度だけ、いわゆる陽キャ的なメンバーに混ざってカラオケに行った。お酒が入っていたのもあるけど、みんなでカラオケのソファの上を飛び跳ねながら交代で歌って(お店的にはいい迷惑だが)めちゃめちゃ楽しかった思い出がある。
別に私が無理して面白いことを言わなくても、笑いをとらなくても、いっしょに馬鹿騒ぎできて嬉しかった。
陽キャとくくってしまうのはよくないけど、そして陽キャ的な人とは普段交流がなかったけど、陽キャ的な人は、楽しいことを積極的に増やそうとする、ふつうにいいやつだったのかなあと思う。
決めることと心臓の歌について
心臓を心臓めがけ投げ込むとぴったり抱きしめられる雪の日
(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)
決めるのは疲れる。決めるたびに、頭を使っているからだ。
「習慣が大事だ」というのは、「どうせやらなければならないのなら、考えないで実行して、決めることを減らして疲れないようにしよう」ということだと思う。
短歌も、この日記も、究極を言えばよりたくさんの人に見てもらってあわよくば褒めてもらって自尊心やら承認欲求を満たせたら気持ちいいが、そのためにテクニックや戦略を立ててやるのは決めることばかりになって疲れる。自分が楽しんでいて、それが他の人にも楽しんでもらえるようになるのが一番健康的だ。
それと、続けることは強い。歌集を出してきた同い年くらいの人たちは、もう10年以上くらいは活動を続けていると思う。能力や才能の有無以前に、続けていなかったら土俵に立てない。続けていることが力になる。この日記もできるだけ続けてみたい。
心臓を心臓めがけ投げ込むとぴったり抱きしめられる雪の日
ぜんぜん今は雪の日じゃなくて夏の日なんだけど、いいと思った歌です。
ブローチの歌と考え過ぎないことについて
純粋に、みつけられたい ブローチをつけて貰うとき 胸を張る
(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)
漫画家の東村アキコが、なぜそんなに筆が早いのかと聞かれてテレビで「考えて描くのも考えて描かないのも大体同じだから考えないで描く」みたいなことを言っていて、まあこの人は美大卒だしもともとのデッサン量がすごいから考えないで描ける域に到達しているのだなと思ったのだけど、生活も同じで、何かの結果というのは短期的には、考えや努力:自分でどうしようもない外部要因=3:7くらいなんじゃないかと思う。長期的には考えや努力が実を結ぶ(こともある)んだけど、日々は大体は外部要因なんだから、あんまり長いこと考えてもしかたないっていうか。
私が心配性で考え過ぎて動けなくなるからこう考える。
学生時代に比べて自由に使える時間が全然なくて、まじで10分以内に書かないと手が止まってしまって続かないし時間ももったいないから、とりあえず書く。
純粋に、みつけられたい ブローチをつけて貰うとき 胸を張る
純粋に、みつけられたい。みつけられたい。でももっとだいじなのは、たぶん胸を張ることのほうだ。
家の周りうろうろするしかないのと風の歌について
からだをもっていることが特別なんじゃないかって、風と、風のなかを歩く
(谷川由里子『サワーマッシュ』より)
家の周りをうろうろするしかない日々だ。
感染症になるのがこわくて、スーパーやコンビニに行くだけなのに、なにか悪いことをしているような気を引きずって入り、早く出ないとと思う。
こんなのあんまりだけど、昼間のニュースによるともっとあんまりな出来事が起こっている、らしい。救急車に乗れないほど治療体制が逼迫しているというのはまさに災害級だと思う。でも感染症にかかっていない側の世界はほとんどいつもと変わらず、利益が得られない(ように感じる)のに制約がじりじりともう1年以上続いており、心配するのも疲れるのも疲れてしまったと思う。
人の中には共感性の低い、もしくはない人がいると思うが、こんなふうな災害を乗り切るのに適した能力なのかもしれないなと思う。だっていちいち心配したり心を痛めていたらとても保たない…。
からだをもっていることが特別なんじゃないかって、風と、風のなかを歩く
子を抱っこしてスーパーまで行く道で、変わることといえば風の有無と気温と天気くらいしかない。子に、かぜがつよいねーと話しかけるけど、子は無反応である。私はこんどからこの歌を思い出しそうだ。
『サワーマッシュ』の月の歌について
月 とだけ、伝えたくなる ひとつだけ胸ぜんたいに月が広がる
(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)
最初に白状するが、えいやと開いたページに載っていた短歌を紹介している。
え、いい歌… と思った。このブログは(今現在執筆時は)横書きのフォーマットなので最初の「月」が左端に来ているが、縦書きだとまさに天に月がひとつだけあるように月という文字がひとつだけあるのだ。
それにその下の内容も、いやこれ説明要る?けっこう完璧じゃない?
現実にはひとつだけのぽつんとした月なはずだけど、決して広がりはしない月だけど、自分の内面は無限なのだから、月とだけ伝えたい が発生したその瞬間に月はもう広がっているし月と伝えたいは同じものなのだという…かんじ?
もし、井の頭公園で夜の花見をしながら酒を飲んでいたら、谷川さんが「月」って言いそうだなー、言ってほしいなーと思った。
月 とだけ、伝えたくなる ひとつだけ胸ぜんたいに月が広がる