Aqua Timezについて

※以下、全然ファンでもないし詳しくもないのに偉そうなことを書いています。

 

Aqua Timezが現役で、『等身大のラブソング』という曲が出た頃。この曲をそこかしこで聞くたびに拒否反応があった。「おまえは俺の腕の中で幸せな女にな~れ~♪」のところは特に嫌だった。でもなんでなのか理由はわからなかった。

 

その後、私が俳句甲子園の前夜祭的な催しに出席したとき、『虹』という曲の「靴紐を結びなおす時 風が僕らの背中を押す」というフレーズが会場にかかって、一瞬でなんかめちゃめちゃいい曲だなと思った。

 

またまたその後(その前だっだかも)に聴いた、『千の夜をこえて』という曲の「愛されたいでも愛そうとしないその繰り返しの中を彷徨って…」というフレーズ、これも一瞬ですげぇいいフレーズだ!と思った。

 

 

…今思うと、(Aqua Timezほかの曲のことは大して知らないのだが、)歌詞の音とメロディの乗り方がすごく上手なバンドだったのでは?と思う。短歌で言うところのリズムがいいというか、一気に読ませるというか、そういう気持ちよさがあって、そのベクトルがちょっとズレたのが『等身大のラブソング』の「な~れ~♪」前後だったのかなぁと。

 

それと、歌詞は、わりとありふれたことを普通に言ってるんだけど、どストレートで逆にクる…とでも言えばいいのか、なんというか…奇を衒った歌詞じゃないんだけど、一周まわってしみじみするというか…そういうのが…あったんじゃないかと…。

 

『虹』の歌詞の「俺の腕の中で幸せな女になれ」は典型的すぎるというかオラオラなヤンキー文化かという感じで曲調もレゲェ?であまり好きではないんだけど、聴いてみると他の曲は全然違う(JPOPだなってかんじ)なので、この曲が異質というか、流行りすぎちゃって損した部分もあるんじゃないのかなーとか勝手に思った。

 

平成を懐かしむ気持ちで書いてみたが、ずっと頭に残っていたことだったので書けて良かった。

「靴紐を結びなおす時 風が僕らの背中を押す」「愛されたいでも愛そうとしないその繰り返しの中を彷徨って…」…うーんやっぱ好きだなぁ。カラオケで歌いたいなぁ。

 

日記 十二月

仕事に注力する必要があるので短歌活動が全然できない。でも読みたい・買いたい歌集はあるので火は消えていない。

歌集、手っ取り早くAmazon楽天かで買ってしまいたいが、書店で購入する意義を考えるとネットで買えない、、、という状態が続いている。

しかし歌集の品ぞろえのある書店に行く時間はない。近所の書店に電話で注文すればいいけど電話はしたくない。その程度なのかお前の気持ちは!と思って少しつらくなる。※つらくなる必要はないように思う。

 

歌会を主催して、やることがけっこうあるなあと思う。もう少し書きたいけど、もう電車を降りなくては…

日記

『はつなつみずうみ分光器』の山崎聡子評、かなり辛辣なことを書いている気がするのだが…?

 

『手のひらの花火』を持っておらず、逆に(?)第2歌集の『青い舌』をばらばらに読んでいるんだけど、危うさ…みたいなところは共通していそう。読んでいてやや違和感があり、そのヒントになるかもしれないと思う。

 

『はつなつ~』には、谷川さんの『サワーマッシュ』が入っていないので(ちょうどはつなつ~の2ヶ月前に刊行されたせいかもしれない)、瀬戸さんが『サワーマッシュ』にはどういうことを述べるのか気になるところではある。

 

瀬戸さん以外にも、己の価値に従って正直に総じて述べてくれる人がもっと増えたらいいのになぁ…あと書籍でまとまってたら有難いなぁ…と思うのだが、山田(航)さんとかか?  何人もいてほしい。

 

メモ:

『サワーマッシュ』について書かないまま、石井(僚一)さんの『死ぬほど好きだから死なねーよ』とそのあとの歌集『目に見えないほどちいさくて命を奪うほどのさよなら』と『・』についても考えているのだが、

・短歌の宛先のその人(とそれに対する感情・当時性)によって文体が変わるという文体(特に第一歌集?)

・正直であること、は共通している

・やっぱ実験…という言葉が思いつくのだが…

・みんなあんだけ第一歌集…ていうか石井さんについてやいのやいの言っていたのに、第二歌集と第三歌集(ですか?)についてはいいんですか???それともどこかで語られてたりしますか???

 

という…。あと、

・短歌の1首1首よりも、著者が何をしたいのかとか、これはどういう短歌のOSなのか…的な考えを巡らせながら歌集ごとに比較しているからサワーマッシュと石井さんの歌集だけじゃなくて他のもいっぱい並行して読んでる

・歌集を1冊通して読むより複数の歌集を並行してちょっとずつ読んで理解しているということはあるときに(半年後とか?)に、20冊読み終わった、となりそう

・それじゃあ今思ったこと忘れそうだよ遅いよー、もっと早くやりたいけど持続可能な生活もしなくては

日記 読んで、なにか思いたい

本当に今更だけど、同世代、特に実際に歌会で言葉を交わしたりした人や、言うなれば思い入れのある人物の歌集へ何かコメントをしたいという気がすごくある。できれば短歌の文脈上からも捉えてコメントはしたいんだけど、そのような短歌観?が十分になるまで待っていたらあと10年くらいかかりそうなので単なる個人的な感想だとしても早く残しておきたい。

 

順番的には谷川さん→石井さん→(穂村弘雪舟えま、枡野浩一)→山田さん→むいちゃん→阿波野さん→(橋爪さん、榊原さん、・・・)、あといろいろ…

 

最近の人(?)の歌集についても何か感じたい。コメントしてみたい。『4』を読んでいるけど… 歌集がいっぱい出ていて、全然追いつけない。

 

日記 音楽だったら

音楽だったら、演歌、ロック、JPOP、クラシック、洋楽、民族音楽、和太鼓、アニソン、…みたいにジャンル分けがあって、全部聴かなければ音楽通ではない!けしからん!みたいに責める人はいないと思う。というか、すべてのジャンルの音楽を聴いてます〜という音楽との関わり方をする人はなかなかいないし、責める側も全部のジャンルの音楽を聴けないので実質責め立てるのは不可能である。何か主軸のジャンルがあって、その派生として気づいたら大体のジャンルで気になるものは聴いてます、くらいだろうか。

 

でも、短歌は、もし評論したいのならばだいたい出てる歌集は履修しておかないといけない気がする。それはつまり、短歌の中にはひとつのジャンルしかない…ということだろうか? それとも、ジャンルとして分けるほど数がないということだろうか?

 

たとえば何年代に出た歌集という分け方はできると思う。また、文語か口語か、ライトヴァース、的なまとまりを議論することもあるだろう。だけどそれはジャンルではない。ジャンルの定義は知らないが、少なくとも年齢や性別にはとらわれず、そのジャンルに至るまでの経緯(物語?)があるものだと思う。

 

知らないだけで、短歌にもジャンルはあるのだろうか。

それとも…短歌自体が韻文のなかのジャンルのひとつである…さらに言うと文学の中のひとつである…のは確定だと思うので、やっぱり、短歌が希求するものはなにか、ということを考えるのがいいのだろうか(何に???)

 

音楽の中のジャンルは、音でできているという共通点がある。

文学の中のジャンルは、言葉(テキストのみ)でできているという共通点がある。

たとえば演歌とロックとJPOPは、小説と詩と短歌…みたいに…うーん…うーん…

(まとまらず)

 

日記 ちょっとずつ読む

家にある歌集、『たんぽるぽる』『サワーマッシュ』『行け広野へと』『花は泡、そこにいたって会いたいよ』『音楽』『4』『ビギナーズラック』…あたりと、ネット上にある文章とを読み比べている。歌集は1冊通してじゃなく、ちょっとずつ…。

 

『花は泡、そこにいたって会いたいよ』・『サワーマッシュ』はいただいた本なのに当時まったく読めなくて勝手に申し訳なかった思いがあるが、今読むと本当になんで読めなかったんだろう?と思う。今と脳の構造が違っているんではないかと思う。

 

『ビギナーズラック』に至っては、はなから読めないと思い献本を断ったのだった。読めないのに献本をもらうくらいなら、その分を誰かに送ってもらって、私は読める日が来たら自分で買おうと思って(その日が来てよかった)。斉藤斎藤氏の解説が簡潔かつわかりやすくて助かる。阿波野さんの短歌は羽根と根で読んではいたが、どう捉えて、どう考えていいのかまったくわからなかった(当時はほとんどの歌集がそうだった)。やっぱ、短歌のおさらいが必要だな。楽しむためには。

今は歌集自体を本当にクリアに読むことができている気がする。いや、全部はまだ読んでないんだけど。

…、歌集は短歌の歴史というか推移を踏まえたり評論を読んでこそ楽しい面があって、歌集一冊そのまんまだけだと難解で衒学的な作品のように感じるものが多い。なんというか、美術作品に似ているような…。美術作品のこともよく知らないが、単に周辺情報なしでその作品を見るだけより、時代性や作家の個性を踏まえて味わうということが楽しいのだと思う、でもたぶん、それがなくても何かウワ!と感じるからこそより知りたくなるというもんだろう。すごい作品というのは。

学のなさがまるだしだが仕方ない。体系的に理解できるようになるには5年くらいは必要ですかねぇ。学生のうちにやっておけたらよかったのに…