日記

「良さはわかるけど私は良いと思えない短歌」について、自分がなぜそう思うのか知りたい。

 

昔からうっすら感じていたことで、最近むかしの20倍くらいは歌集を読むようになったのでやっぱりそうだなという気持ちで考えているのだけど、私は好きな短歌のストライクゾーンがかなり狭いと思う。どんな歌なのかを具体的に書くのはまだはばかられるけど、多くの人に愛されているような歌や、名歌として数多く引用されている歌でもおかまいなしに「良いと思えない(あるいは好みではない)」が発生する。そして数が多い。数が多いと、短歌のほとんどを好きになれないということなので、やや困っている。好きになれないものを、どうしてやっているのか??

ダイヤ一粒を見つければそれで全部報われる、という感じでもない。人生を変えるような一首があるわけでもない。

 

※昔(10年くらい前です)より、ぐっと歌集にアクセスしやすく、またバリエーションもいろいろに歌集が増えてきたと思うので、ストライクゾーンに入る数は増えている、とは思う。

 

 

青野くんに触りたいから死にたい』12巻に、(以降ネタバレしたくない人は注意)主人公を虐げる姉と、それがなぜなのかに気づいて言葉にする主人公が描かれる。

このシーンをたびたび思い出す。誰か(相手)に投げかけるものというのは、その誰か(相手)の状況を表したものではなくて、自分の状況そのままなのではないか、という。

 

これと同じことが、「良さはわかるけど私は良いと思えない短歌」にもあるのではないか、と思っている。「良いと思えない」というのは、その歌に問題があるのではなく、私に何か要因があってのことなのでは、と。

や、なんか当たり前じゃんって話かもしれないんだけど。

たぶん、要因がわかったところで、良いと思えるようにはならないと思う。ただ、自分の機構がわかるだけ。

 

でも、そこをちゃんと認識できれば、そういう派として、今より芯が通って在ることができるのではないかなと思っている(このとき、私は枡野浩一を思い出している)。

 

 

短歌、自分の中でカテゴライズして派を作って、そこに読んだ歌集の歌人を入れていくことができつつある(前は歌人の名前も作品も頭にインプットされておらず口に出てきすらしなかったから、、、)

 

新しい「派」が来る…できることを、なんだかんだみんな楽しみにしているのではないかな、って思う。たとえば、この前の文學界だったら青松輝と伊舎堂仁(この二人自体はそれぞれは別の派かもしれないけど)。

新しい歌人の歌集を読むことは、そこを感じること。今まで見たことがないものを知るのはおもしろい。