ぷろぐらみんぐを勉強するとは、と、コーヒーカップの歌について

 

珈琲をそそがれるとき丸ごとのコーヒーカップにわたしはなれる

(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)

 

 

昨日はオンライン短歌市という仮想空間での同人誌販売会?に参加したのでブログを更新するのを忘れた。正直言ってやっぱりブログを毎日更新するのはめんどくさいの気持ちが勝ってしまい、自分との戦いだなと思っていますね。

 

毎日をがんばってやりすごしているのに、夜になるとツイッターやネットサーフィンをして後には何も残らないので、ちょっとずつ本を読んでノートに書いて勉強したりしてみている。プログラミングとかウェブサイト作りとかのことを知りたくて、あわよくば仕事に繋がんないかなあなんて思っている。

たぶん、コードを書いて何かを作るのと、ウェブのなんらかのなにかを使って金儲けやPRをするというのは全然違うことなのだが、小中高大でそんなことを習う授業はなく、最初はそこを混同して考えていた。

プログラミングに詳しい人に「ぷろぐらみんぐをべんきょうしてみたいんです」と言ったら、「最初に何がしたいかの目的がないと何の言語をやってもあんまり意味がない」と言われて、それはそうです…よね…人生のこと…かな?…と思ってたぶん3年くらいは経った。

 

 

珈琲をそそがれるとき丸ごとのコーヒーカップにわたしはなれる

 

 谷川さんの短歌は優しいなあ、というか、希望がラメのように散りばめられていて基本的には明るい色調のように思う。この歌も、「なれる」がやっぱり「できる」という明るい意味を放っている。

わたしは珈琲も飲まないし丸ごとのコーヒーカップになる感覚を覚えなさそうなので、いいなあ、と思うだけである。