日記 世界を体験する

歌集を読むのは、主体の中に入ってその主体の世界を体験する…みたいなことだなー最近読んでて考えていて、主体じゃなくて「私」でも「作中主体」でも「著者」でもいいんだけど、「それ」の中に入って価値観とかものの味方とか詩歌的な感覚を体験するという…体験なのでは、というのが、今、歌集を読むということの納得の仕方として一番の解釈。

 

漫画や映画は「外からの視点」で、主人公も世界も丸ごと描写するから摂取する分にはとてもわかりやすいんだけど、短歌は「中から見る」って感じなので、合わない著者だとおぇってなるし、こんなふうに世界が見えるんだ!とか、いやわからん。とか、そういうふうに合うか合わないかが激しい…という…感じがする。ぴったりくる比喩じゃないんだけど、操作できないロボットに乗り込むというか、各「主体」に乗り込んで、自分は保ちつつ主体のガワと感覚をもって世界を体験する(操作はできない)というイメージ。世界は幻視の世界かもしれないし、ツイッタラーの世界かもしれないけど、歌集を通せば在る世界になる。

 

映画は最近あんまり観てないからわからないけど、漫画はだいたい「おもしろい」か、「つまんない」に分類されるが、短歌は「とにかく合わない」とか「いい気分になった」とか「良さはわかるけどこれじゃない」みたいな感想が浮かぶ。

 

『ねむらない樹』11号の藪内亮輔「2023年の収穫」に、「言語芸術が、視覚・聴覚・観念で捉えきれないような『存在以前の存在』を捉える方法であるとすれば、」と書いてあるが、そのようなものさしがひとつあると歌集を捉えやすくなるのでありがたい記述だな、と思った。

そして、先に書いた「歌集を読むのは人間体験」説で考えると、人間体験のなかに『存在以前の存在』を捉えることも内包されているんじゃないかなー。あと他にもいろいろありそう…。とまで思った。

変なこと言ってますか?ばかみたいですか?

 

でも、たいていの歌集を読むのが苦痛だったときからめちゃめちゃ前進した気がする。合わない歌集のほうが多い予感はまだするけど、嫌いとか合わないとかじゃなくて、もっと何か尺度をもって納得して不快感も理解していきたい。

 

仕事が溜まっていて、でも、さばくための心の体勢が整っていない。でもでも、上のことを考えられたからちょっとスッキリした。また仕事脳に切り替えないといけない。

 

気にしないで書きたいことを文章に書けるようになってきて嬉しい。ブログを何個も墓場にしてきたのは、もっともらしいことを書かなくてはという制限を自分にかけていたからだけど、完璧なものが書けるはずもないし、どんどん出しちゃったほうが色々といいやぁ、となってきた。

これを仕事とか気にしぃな思考にも適用させていきたい。