石井僚一の第二歌集『目に見えないほどちいさくて命を奪うほどのさよなら』と、第三歌集『・』(いずれも電子版)について、何か言わなければならないという気持ちがある。
※そもそも第二歌集と第三歌集でいいのか?というのはあるが歌集の体は為していると思うのでそう書く。
ていうかそれ以前に、第一歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』が出たあと、ずっとどう読んでいいのかわからなかったという個人的な問題があった。同じタイミングで北大短歌会に入り、短歌研究新人賞を受賞するのも歌集を出すのもわりと近くで見てきたはずなのに、どういう歌集でどういう歌人なのかわからなかった。
これは当時私が歌集を読む頭になってなかったので読めないのはそりゃそうだっただろうな、というのもあるけど、やはり今考えると、第一歌集での文体自体は割と揺れていて歌集全体としてはやや世界観を捉えにくくなっていて、だけどしかし短歌で表したい(やってみたい)ものに偽りを入れない、という姿勢は第二と第三点歌集と同じように感じる(と書いたけど、どういう歌集なのか、どういう歌人なのかとかは別個考えたいところ)。
てか。第二歌集はともかく第三歌集は寂しい夜に読む歌集だと思う。私は寂しい夜に読む。だって全部「寂しい」ってことを歌ってるように読める……。(「さびしい」って単語も歌でストレートに使っているしね。)
日記みたいな、短歌なのか?って作りぶりではあるけど、たぶん確かに短歌で、真っ暗な中で、この電子版の歌集を読んでいる間は、寂しいに浸っていられると。思いました。
↑なんのひねりもないんだけど、まとめるとこうなる。どうだろうなー。私は歌をちゃんと引きながら書けるだろうか……。
私は短歌を、歌集を、人と人との関係性のブツじゃん、と思うと同時に、短編映画の集まりみたいに思っている。「みたい」であっても映画と違うのは、画面を見るのではなく私たちが主体にもなれること。その世界を体験できること。その世界に入れること。だから、第三歌集は世界に浸っていられたという点で、やはり短歌なのだと思う。
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なんか明日の朝には「ちょっと曖昧すぎることを書きすぎた~」と思いそうな気がするけど、いつまでも延ばしていてもしょうがないので草案を書きました。