日記 同世代の歌集、指向するもの

歌集や歌人について良い評(もしくはエッセイなどでも、まとまった文章)を書こうとするなら、本来は適切な文献の別の評などもあたって引用しながら書くべきなんだろうけど、そうしている余裕は今はない…(という言い訳だけど…)でも!考えたことを書いておきたい!ので日記ということにする。

 

手元にあるいろいろな歌集と同人誌20冊〜くらい、わりと最近のものが多い(穂村弘の手紙魔まみ以降)んだけど、たとえば学生短歌会などで一緒だった人たちは大きな傾向として指向するものが似ている感じがする…という考えがあたまをもたげる。

サンプル数が少ないのはわかっているが、詩的飛躍に寄せているか実感(?)に寄せているか…みたいなところの傾向や、語のチョイスが、別世代の歌集のかたまりごとに比べてみると、うーん、同一集団内で影響しあっているのでは…と感じる。

語のチョイスレベルで言うと別に悪いということではなくて、あれ、この人のこの語、無意識に私も歌に詠んでたな…というのがいくつかあり、あれ、この人のこの語、私のほうが先に使ってないか…?というのもある。

こういうことは文字にするならちゃんと検証して言ったほうがいいと思うし、おおざっぱすぎる把握だ、でも私はいま初心者のつもりなので、荒すぎる把握でも別にいいではないかと思う。ていうかそこからしか先に進めない…。したいのは、評論ではなくて、その前段階の会話なのだと思う。でも会話する機会もないので日記に感想を書いていく。

 

それにしても、こうやって歌集を比較したり、他の人の評を読んでよりその歌人の解釈を楽しんだりする日が来るとは思っていなかった。

短歌をやめていないということと石井僚一は生きている歌会

自分のための気づきがあったので書きます!

 

5年2ヶ月ぶりに開催されたという、第十三回石井僚一は生きている歌会@札幌に参加した。

 

私から見た石井さんという人は、ほくたん(北海道大学短歌会)に同じ年に入った同期であり、彼の短歌経歴の初期のほうではいろいろと歌会も共にした、思い入れのある人だ。

 

石井さんはアクティブに歌会に出て、自分でもやる人だったと思うが、2019年くらいから短歌のリアルな現場からはいなくなった。『短歌研究』に「短歌をやめた日」という連作を発表していたくらいだから、びっくりした。

 

そんななので、歌会はけっこう緊張して、しどろもどろの自己紹介のあと自分のとった歌を披講するのを忘れたほどだ。

 

歌会とそのあとの話は省くが、そこから抽出された、私にとって書いておきたい気づきがあった。

 

それは、「私が自分で思っているより人を知り、また知られたいと思っていて、それには短歌の方法が好ましくて、だから今まで短歌をやめた気にはなっていなかったんだな」というのが腑に落ちたことだ。

 

今までもぼんやりと感じていたことだったけど、私にとっては私がなぜ短歌をやっているつもりなのか自分で謎だったので、はっきりと言語化して納得できた。

 

私はここ数年ろくに短歌も作らないし歌集も読んでなくて、歌会にも出ていなかった。

それこそ2019年くらいまで東京で「白いひぐま歌会」を共同主催していたが、もう一人の主催者である久石くんの引っ越しを機に、あるいは私が歌会をやる気力をなくして、それ以降は労働やら生活のフェーズが大きくなり短歌を思い出さない日々が続いていた。

 

だけど、あんまり短歌をやめたなと思ったことはなかった。

一方で、毎回短歌たのしー!って思っていないのになんで私は続けているんだろう、とずっと疑問だった。

 

この問いへの解はもう簡単で、さっきも書いたけど、私がまだ短歌の方法で人を知って知られたいと思っているからだ。どんな人なのか、どんなことを感じているのか知りたい。

それはずっと続いている。細くなったり弱くなったりもするけど、切れていない。だから、短歌をやめていない。

 

たとえば歌集を読んだら、その人と話すだけでは顕在しないその人がわかる。

歌会に出たら、普通の人との会話とも世間話とも違い、気が合って盛り上がるのでもなく、互いに短歌を通して何を思ったのか交換し、交差することがあると感じる。

短歌を作るのは、自分がどんな人間か知ることだと思う。(あと、自分をこえて短歌にしか見えない場所に行けることもある。それも不思議で、超越していて、おもしろい。)

 

短歌の時間は、家族との団欒でも、気心の知れた友達と楽しいおしゃべりでも、恋人との高揚でも、知的な探求でも得られない、人間と交わるひとつの方法として、今のところいちばん当てはまっている感じがする。どこか退屈なひとりな感じを忘れさせてくれる。純粋におもしろいというよりもう少し、へぇ、と思ってほっとするという感じだと思う。

 

短歌が楽しい…楽しいのだろうか? つまんなすぎる、と思いながら苦々しくやってきたことも多々あるのに、なぜやっているのかって言ったら、やっぱりそれは人を知りたいからだ、って解が一番納得する。

 

昔はそれが認識できていなかった。短歌を作りはじめた一番最初のほうは、なんかうまくできた気がして楽しいから作ってみているだけだった。歌会に参加しはじめて他の短歌の人も認識したころは、もう少し自分を知って欲しいという要求が強かった。まわりを見て、全然良く思えない!っていう気持ちが強かった。でも、そういう段階は過ぎた。

 

 

(で、こっから先はあまりまとまっていないのですが)

 

それで言うと、その人が見えないorその人に興味が持てない短歌活動はできない/できていなかった/これからもできないかもしれない。

 

石井さんにどんだけ人恋しいんだよ!って言われたけど、人なんか知るかーっていう人恋しくないときは、短歌はいらないかもしれない。

 

いや、どうだろう。うーん…。

 

(ほくたんに居た頃から、自然科学や社会のようなシステムについて知ることがとても楽しくなって、たとえば「虫ってどういう起源なんだろう」とか、「なんで資本主義になるんだろう」とか、謎解きみたいなのを調べたり考えたりするのが好きで、それと同じように人についても知りたいから短歌をやっている、っていう気もする。)

 

 

今まで、短歌を真面目にやっていないというか、私は歌人ではないよなーみたいな気がしていたけど、けっこうもういいやって開き直ってきたので、また何かできそうな気もしてきた。

 

でもとてもめんどくさがりやで気が散りがちなので、どうでしょうね。

 

終わり。

 

 

悲しいニュースを摂取しすぎないことと手の屋根の歌について

手で屋根をつくって歩くお前たち昼間の雨にひるまないでね

(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)

 

 

悲しいニュースが多い。書くとその語彙だけで悲しくなるので何が悲しいニュースなのかは書かない。

 

悲しいニュースを摂取しすぎないほうがいいと思う。この世の現状を把握することは大切だが、だからといってたとえば過去まで遡って凄惨な出来事を全部知るべきかというとそうではない。ように、現代の今まさに起きている悲劇的なことすべてについて把握している必要はまったくない。

 

私は家にいることが多いので、テレビをつけていると1日2〜3個は悲しいニュースが流れる。Twitterはもっと詳細に悲しいニュースを表示する。

 

むかし、大学で中国語の先生が「悲しいニュースを見るとつらいので、テレビを見ないようにしています」と言っていた。おおげさな、と思ったけど今ならその気持ちがわかる。

 

 

手で屋根をつくって歩くお前たち昼間の雨にひるまないでね

 

谷川さんの歌は人を恨むとか悲しい気持ちを延々と繰り返すとかそういう匂いがしないのですごいと思う。それに、他人の影響を受けずに立っている。ただ、すごいというのはそっちが良いということではなくて、私と違ってすごいと思うというだけである。

ぷろぐらみんぐを勉強するとは、と、コーヒーカップの歌について

 

珈琲をそそがれるとき丸ごとのコーヒーカップにわたしはなれる

(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)

 

 

昨日はオンライン短歌市という仮想空間での同人誌販売会?に参加したのでブログを更新するのを忘れた。正直言ってやっぱりブログを毎日更新するのはめんどくさいの気持ちが勝ってしまい、自分との戦いだなと思っていますね。

 

毎日をがんばってやりすごしているのに、夜になるとツイッターやネットサーフィンをして後には何も残らないので、ちょっとずつ本を読んでノートに書いて勉強したりしてみている。プログラミングとかウェブサイト作りとかのことを知りたくて、あわよくば仕事に繋がんないかなあなんて思っている。

たぶん、コードを書いて何かを作るのと、ウェブのなんらかのなにかを使って金儲けやPRをするというのは全然違うことなのだが、小中高大でそんなことを習う授業はなく、最初はそこを混同して考えていた。

プログラミングに詳しい人に「ぷろぐらみんぐをべんきょうしてみたいんです」と言ったら、「最初に何がしたいかの目的がないと何の言語をやってもあんまり意味がない」と言われて、それはそうです…よね…人生のこと…かな?…と思ってたぶん3年くらいは経った。

 

 

珈琲をそそがれるとき丸ごとのコーヒーカップにわたしはなれる

 

 谷川さんの短歌は優しいなあ、というか、希望がラメのように散りばめられていて基本的には明るい色調のように思う。この歌も、「なれる」がやっぱり「できる」という明るい意味を放っている。

わたしは珈琲も飲まないし丸ごとのコーヒーカップになる感覚を覚えなさそうなので、いいなあ、と思うだけである。

笑いをとることとカラオケのハンガーの歌について

カラオケのハンガー壊れるハンガーはドラムにもギターにもなるから

(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)

 

 

笑いのエッセンスのある文章(ブログ)に憧れている。

具体的にいうとアルテイシアさんとかズイショさんとか……。

しかし、すでに小学4年生のときにはバスケットボール愛好会の休み時間に盛り上がっている他の女の子たちを見て「私は人を笑わせられないな(暗)」と笑いのスキルについて比べて悩んでいたので、昔から向いてないことは無理にしなくていいかーと思う。

 

 

カラオケのハンガー壊れるハンガーはドラムにもギターにもなるから

カラオケのハンガーはいかにも壊れそうだ。ハンガーには悪いけど、楽しいカラオケの場合、盛り上がってドラムにもギターにもなっちゃうだろうなと思う。

 

大学生のとき、一度だけ、いわゆる陽キャ的なメンバーに混ざってカラオケに行った。お酒が入っていたのもあるけど、みんなでカラオケのソファの上を飛び跳ねながら交代で歌って(お店的にはいい迷惑だが)めちゃめちゃ楽しかった思い出がある。

別に私が無理して面白いことを言わなくても、笑いをとらなくても、いっしょに馬鹿騒ぎできて嬉しかった。

 

陽キャとくくってしまうのはよくないけど、そして陽キャ的な人とは普段交流がなかったけど、陽キャ的な人は、楽しいことを積極的に増やそうとする、ふつうにいいやつだったのかなあと思う。

決めることと心臓の歌について

 

心臓を心臓めがけ投げ込むとぴったり抱きしめられる雪の日

(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)

 

 

決めるのは疲れる。決めるたびに、頭を使っているからだ。

「習慣が大事だ」というのは、「どうせやらなければならないのなら、考えないで実行して、決めることを減らして疲れないようにしよう」ということだと思う。

 

短歌も、この日記も、究極を言えばよりたくさんの人に見てもらってあわよくば褒めてもらって自尊心やら承認欲求を満たせたら気持ちいいが、そのためにテクニックや戦略を立ててやるのは決めることばかりになって疲れる。自分が楽しんでいて、それが他の人にも楽しんでもらえるようになるのが一番健康的だ。

それと、続けることは強い。歌集を出してきた同い年くらいの人たちは、もう10年以上くらいは活動を続けていると思う。能力や才能の有無以前に、続けていなかったら土俵に立てない。続けていることが力になる。この日記もできるだけ続けてみたい。

 

 

心臓を心臓めがけ投げ込むとぴったり抱きしめられる雪の日

 

ぜんぜん今は雪の日じゃなくて夏の日なんだけど、いいと思った歌です。

 

ブローチの歌と考え過ぎないことについて

 

純粋に、みつけられたい ブローチをつけて貰うとき 胸を張る

(谷川由里子 『サワーマッシュ』より)

 

 

漫画家の東村アキコが、なぜそんなに筆が早いのかと聞かれてテレビで「考えて描くのも考えて描かないのも大体同じだから考えないで描く」みたいなことを言っていて、まあこの人は美大卒だしもともとのデッサン量がすごいから考えないで描ける域に到達しているのだなと思ったのだけど、生活も同じで、何かの結果というのは短期的には、考えや努力:自分でどうしようもない外部要因=3:7くらいなんじゃないかと思う。長期的には考えや努力が実を結ぶ(こともある)んだけど、日々は大体は外部要因なんだから、あんまり長いこと考えてもしかたないっていうか。

私が心配性で考え過ぎて動けなくなるからこう考える。

 

学生時代に比べて自由に使える時間が全然なくて、まじで10分以内に書かないと手が止まってしまって続かないし時間ももったいないから、とりあえず書く。

 

 

純粋に、みつけられたい ブローチをつけて貰うとき 胸を張る

 

純粋に、みつけられたい。みつけられたい。でももっとだいじなのは、たぶん胸を張ることのほうだ。